観光案内

【弥栄大橋】

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岩国市美和町と大竹市の県境に架かる弥栄大橋は、名勝弥栄峡と名峰白滝山の絶景をバックに横たわる雄大な大橋である。
全長560メートル、幅10、4メートル、橋面から湖底まで90メートルあり、使用された鋼材の総量は2600トンに及んでいる。
又この橋は特にダムの景観を考慮して、単純優美に造形されており、日本で屈指の長大鋼斜張橋となっている。

【岸根栗(がんねくり)】

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  • 大栗林と小栗林

山口県と広島県境にある小瀬川の上流、広島県佐伯郡栗谷村(現在大竹市栗谷)の大栗林には、昔、数百年を経た大くりのなる1本のくりの木があって、地域の住民は、この実を食用としていた。子孫の増加により、一部の人達は別の地に移り住み、大くりの実を採って繁殖を図ったが、親くりのような大きなくりはならず、小さなくりの実しかならない林となった。このため、集落を小栗林と言うようになった。

  • 接ぎ木技術による大くりの増殖

その後、西暦1180年の頃、平家の落人が、現在の美和町坂上地区にも逃れ、岸根(がんね)の白滝山に城を築き、武術鍛練をしたといわれている。その一族の中に、接ぎ木の方法を心得た者がおり、大栗林より大くりの穂木を取り寄せて、白滝山の南麓に自生していた天然のくりの木に添え木をし、その方法を近くの農民に授けたのが、岸根栗(がんねくり)の始まりと言われている。

  • 品種登録

その後、このくりの名声も高まり、近隣の地域でも栽培が始まり、多田くり、岩国くり、坂上くり、丹波くりなどの異名がつけられ、各市場で販売されるようになった。大正2年に、京都府立農事試験場で開催された、全国くり品種名称調査会に当時の坂上村農会技手、西村新治氏が坂上で昔から栽培されている大きなくりを出品し、地名をとって「岸根栗」(がんねぐり)と命名したことから、それまでいろいろな名で呼ばれていたものが初めて国に品種登録され「岸根栗」(がんねぐり)と呼び名が統一された。
その後、学者や専門家で研究した結果、岸根栗は他に類似品のない優良品種であることが判明し、国の奨励品種として国内は勿論、海外にまでその名が知られるに至った

【美和パークゴルフ場】

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美和パークゴルフ場は、十八ホールの本格的なパークゴルフ専用コースである。
簡単なゴルフの原点のような競技で、年齢、性別、経験を問わず、誰でも気軽に楽しめる。
美和の名所、弥栄湖の巨大噴水や弥栄大橋の傍で、山紫水明の風景を愛でながら、緑の芝生の上で展開する競技は、一度経験すると病みつきになる程の楽しさを感じるという。
日曜祝祭日は予約した方が確実に競技出来る。
(美和パークゴルフ場 tel0827ー96ー0569)

【岸根栗の原木林】

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パークゴルフ場の向側の斜面に、岩国市美和町名産岸根栗の原木林といわれる所があり、今も古い栗の木が残っている。
伝説によれば、源平時代屋島の戦いに破れた平家の落人の一部が、厳島を経て小瀬川を 遡上してこの地に達し居住したという。
その頃川向い野」上流栗谷の地に、大きな実をつける栗の木があり、そこは大栗林とよばれていた。
平家の落人の中に接ぎ木の技術保持者がいてこの大栗の木を、ここに沢山あった小さな実をつける栗の木に、次々と接ぎ木して増やしていった。
こうして大きな実のなる栗の木と、接ぎ木の技術は世代を更新し乍ら地域に定着し拡大していった。
脈々と守り伝えられて来たこの栗は無名であったが、大正の初年先覚者により、岸根栗と命名され全国に紹介された。
そして権威ある農学者達により全国最優秀品種の栗であるという高い評価を得ることが出来た。

【弥栄峡】

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弥栄峡は中世代白亜紀の花崗岩地帯が、その後の流水による浸食作用により現在のような地形を造りあげたものである。
そしてその浸食作用の過程で、珍しい奇岩怪石を造りあげ、変化に富んだ地形と共に、古くからその風景美は人々に愛され山口県指定名勝となっている。
弥栄ダムの建設により、川床の名石の殆どが水没するため、県指定名勝の解除も論議されたが、指定地域の3分の2は残るということで、解除にならず山口県指定名勝として存続している。
ダムで水没するまでは、仁王釜、水神釜、帯石、かんす岩、ハナグリ岩などの奇岩怪石を見ることが出来た。しかし上流部分には今でも亀岩、屏風岩、鬼面岩などと共に早期の甌穴現象も数多く見る事ができる

【白滝山(白滝城跡)】

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白滝山は美和町岸根にあり、海抜約458メートルで花崗岩の巨大な岩塊ともいえる。
山口県百名山の一つであり町内外の多くの人々にこよなく愛されている山である。
古来から豪雨のとき、削りとったような急峻な岩肌を、白く輝いて滝のように流れる水の様子を見て、いつしか白滝山と呼ばれるようになったという。
「岩国市誌」や「日本城郭大系」によれば、往古ここに山城があり、筑紫大炊頭という城主がいたとのこと、又あるとき四方の峰々に点滅する光を大敵の襲来と見誤り、狼狽して退去しようとし、後ろの急峻な谷に多くの城兵が落ちて死亡したため、現在でも「千人崩れ」と呼ばれている場所がある。

【芥川龍之介父子の碑】

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生見(いきみ)の真教寺は、芥川龍之介の父系新原家の菩提寺である。
昭和62年、芥川家を始め多くの人々の協力により、「芥川龍之介父子の碑」が完成した。
碑文の「本是山中人」(もとこれさんちゅうのひと)という文は、龍之介が羅生門の出版記念祝賀会の時、主催者に書いて渡したものであり、その文意は長い間文壇で謎とされていた。
後年研究者により、これは彼が父の出身地を偲んで書いたものであることが判明した。
副碑の文は龍之介の真筆で、彼の警句「侏儒の言葉一人生一」の一節である。
近年文学を愛する人々の訪問が多い。